死語の世界を語る
ところで、仏教にしても儒教にしても、死後の世界については
明確に語っていません。孔子は「未だ生を知らず、焉(いずく)
んぞ死を知らん」といいましたし、お釈迦様もマールンクヤという
弟子から「霊魂というのは、死後どうなるのですか。不滅なの
ですか」と聞かれ「苦悩から解脱こそが最大の重要課題であ
るにもかかわらず、そのような戯論をしていても仕方がない」と
諭し、死後の世界があるともないとも明確にしていません。
しかし、森先生はちゃんと語られています。
「人は死んでからどうなるか」さらには「人は死んだら何処へ
行くか」という問題ですが、これに対するわたくしの答えは、結
局「われわれ人間は、死ねば生まれる以前の世界へ還ってゆ
く」と、考えているのであります。(中略)それ故、わたくし
にとっては、結局死は、生まれる以前のわが「魂の故郷」へ
還りゆくこと、としか考えられないのであります。
死んだら生まれる前の世界に還るのだ、といわれているので
す。それが「魂の故郷」です。
死が恐れる必要のないものになれば、我々にとって死が問題
となるのは、そこに至るまでに自分の
片ずけておくことができるか、という点に絞られます。死への
覚悟が決まったら、あとは生に徹することだけ考えればいい。
この世へ派遣せられた者として、与えられた使命を十分に果た
すことが重要なのだ。ということになるのです。
この考え方は、森先生の哲学を理解するための重要ンポイント
です。

死んだなら、どこでもいいのです、ちゃんと懸命に生きたなら
きっと、どこだって大丈夫なんですよね。そう思うのですが、
まだちゃんとは生きていないからちゃんと自分で生きたなあと
思えるまでは、生きていたいし、安心してからにしたなぁ。うっふ。
だから、孔子さまのように、いまだ生を知らず……。です。生ま
れたことさえ、知らないのかも。
ところで、仏教にしても儒教にしても、死後の世界については
明確に語っていません。孔子は「未だ生を知らず、焉(いずく)
んぞ死を知らん」といいましたし、お釈迦様もマールンクヤという
弟子から「霊魂というのは、死後どうなるのですか。不滅なの
ですか」と聞かれ「苦悩から解脱こそが最大の重要課題であ
るにもかかわらず、そのような戯論をしていても仕方がない」と
諭し、死後の世界があるともないとも明確にしていません。
しかし、森先生はちゃんと語られています。
「人は死んでからどうなるか」さらには「人は死んだら何処へ
行くか」という問題ですが、これに対するわたくしの答えは、結
局「われわれ人間は、死ねば生まれる以前の世界へ還ってゆ
く」と、考えているのであります。(中略)それ故、わたくし
にとっては、結局死は、生まれる以前のわが「魂の故郷」へ
還りゆくこと、としか考えられないのであります。
死んだら生まれる前の世界に還るのだ、といわれているので
す。それが「魂の故郷」です。
死が恐れる必要のないものになれば、我々にとって死が問題
となるのは、そこに至るまでに自分の
片ずけておくことができるか、という点に絞られます。死への
覚悟が決まったら、あとは生に徹することだけ考えればいい。
この世へ派遣せられた者として、与えられた使命を十分に果た
すことが重要なのだ。ということになるのです。
この考え方は、森先生の哲学を理解するための重要ンポイント
です。

死んだなら、どこでもいいのです、ちゃんと懸命に生きたなら
きっと、どこだって大丈夫なんですよね。そう思うのですが、
まだちゃんとは生きていないからちゃんと自分で生きたなあと
思えるまでは、生きていたいし、安心してからにしたなぁ。うっふ。
だから、孔子さまのように、いまだ生を知らず……。です。生ま
れたことさえ、知らないのかも。