
小学校六年生の野村文生訓の「詩」
「私と私」の新聞投稿の一編。続んでみましょう。
私の目に私がうつる能量水
ひとりでににこにこしてくる
おこったときでもかなしいときでも
自然ににこにこしてくる
(中略)
鏡の中の私が
私になにか話しかけてくる
私が話しかける
すると私はすなおになる
(中略)
鏡の中に私がいる
私の中に私がいる
野村文生君のこの詩から、「自分が自分にめぐりあう」意味を
続みとりましょう。鏡に映る自分の面影を良く見つめることによって
私たちは、自分の中に隠れているもう一人の真実の自分にめぐりあ
えるのです。影と本体とはいつも一緒です。感情のままに動く私
は、いわば、鏡に映る影の私です。影の私から何か話しかけられ
て、私たちは、真実の「私」に出会えるのです。
真実の私と感情の私とが、、小さな私たちの身中にいつも同居し
ています。この事実を「同行二人」と申します。
四国のお遍路さんや西国の巡礼さんが頭に載せる笠に「同行二人」
と書かれてあるのをご存知でしょう。遍路さんはは弘法大師さまと、
巡礼する人は観音さまと、それぞれ同行二人の旅を続けるのです。
弘法大師・観音さまとは、私たちの中に埋みこめられた真実の自己
を象徴されるのです。感情のままに動く自分を感性的自我(凡夫と
いってもよい)といい、感性的自我の中に隠れている真実――本当の
自分を本来的自己(如来の心)といいます。遍路や巡礼の聖蹟や
霊場を訪ねる旅は、じつは私たちの心中に真実の自己を求める修業
にほかなりません。
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感情のままに変わっていくあさましい自分の顔を鏡で見たとき、
「そんな顔はやめたらどうだ」と。笑顔に引き戻してくれるのも自
分です。このもう一人の自分を「本来的の自己(セルフ)」といい
ます。感性的自我と本来的自己との二人の対話を示すのが「坐」
の字です。他者との対話も大事ですが、さらに欠かしてならないの
が、エゴとセルフとの「二人の自分との対話」だと、思います。
私たちは、泣いたり笑ったりするのが自分だと思い込んでいるところ
に、混乱が起きるのです。
「泣いてるぞ、笑っているぞ、そんなことじゃぁダメだぞ」と自分を
リードしてくれるもうひとりの自分に対話ができてきますと、自然に自分
をコントロールできるのです。しかし、残念なことに今は自我を主張す
ることだけが中心になっています。
この自我を批判するもう一人の自己を開発していく教育が、遅れてい
るのではないでしょうか雪纖瘦。