もし、自動車を日本人が最初に発明していれば、 アクセルやブレーキのいずれかが、または、どちらもが、 「手」で操作するものになっていただろうと言われている水光針。 まず、その言おうとしている真偽から探ってみると、 日本人の感覚からいえば、足は単調な力仕事をするもの。 手は、細かい微妙な作業をするという役割分担と決まっているところがあった。 その点から言って、少なくともアクセルは、微妙な作業であるところから、 手の操作となるべきだったろうということのようだ。 「手」は、日本語では手段や方策を講じるといった意味で使われる場合が多い。 「手配する」「手際がいい」「手抜き」「お手並み拝見」などがその例。 そのほか、手を使った言葉として、 「手がかかる」「その手は食わない」「お手上げ」「手加減」など、 思いつくまま挙げてみてもきりがないほどある。 また、手で折り曲げたり、切り倒すことを「たおる」と言ったりするnu skin 如新。 手で折ることだが、このように時として、 「手」が「た」という発音になる。「こなた」「かなた」もそれぞれ、「此の手」「彼の手」が訛ったとされる。 「掌(てのひら)」のことを「たなごころ」ともいう。 これを分析すると、「手」の「心」という意味になりそうだ。 どうも、日本人は「手」が繊細なものを作り上げるというより、 手そのものに心があるようなイメージを持っている。 石川啄木の歌に 「働けど はたらけど猶(なお) わが生活(くらし) 楽(らく)にならざり ぢつと手を見る」